昨年は、ずっと不安と隣り合わせの日々を送っていました。
特別何かがあったわけではなく、ただただ不安で仕方がなかったのです。
脳が暴走して、不安の理由になることを探し続けているかのようでした。
就寝前には日記を書き、今日を無事に終えられたことに感謝して明日の無事を願う言葉を唱えて、小さな音で音楽を流し、タイマー式の間接照明をつけて怯えるようにして布団に潜るようになりました。
それは半ば儀式のようで、今となっては強迫的な行動だったと感じます。
当時も自分のおかしさを感じていましたが、それ故に誰にも話すことができませんでした。
思い返してみると、不安だけではなく怒りも強く出ていたように思います。
腹を立てることは想像以上に多くのエネルギーを消耗するため、苛立ちながら誰か止めてくれと切望していたことをよく覚えています。
長い間抑圧していた分、煮えたぎるような怒りが全身を駆け巡るようになり、不安と同様に制御しきれない感情になっていました。
自分の中で何が起こっているのかわからず、その理由を探ろうと深く考え込む毎日を過ごしました。
思い出したくないような、古くて痛い記憶がいくつも蘇りながらも、目を背けまいと奮闘しました。
その末に「感情は感じたままにしていい」という気づきを得ました。
つまり、「受容」することの大切さに気がついたのです。
理解することはできても、実践に至るまでは険しい道のりでした。
「不安を感じることは苦しいけれど、感じたうえで少しでも楽になれる方法を考えていこう」と理解が実感に変わった時は、静かであたたかな感情に包まれました。
自分の軸を見失い、他者評価を軸にして生きてきたから、自分に対して「そのままでいいんだよ」「不完全でいいんだよ」「自分のことを考えていいんだよ」と言ってあげることができなかったのだと思います。
そういう価値観が私の中にはなかったのです。
だからこそ、「受容」とは大革命を起こすようなものでした。
まだまだ道半ばです。
ほんの些細なきっかけで、心が大きく揺らぐこともたくさんあります。
それでも少しずつ、自分に還ることができるようになっています。
自分を見失いかけても、諦めそうになっても、まだ癒したい痛みがあるから。
これからも、生きのびていきたいです。